情に棹させば流される

我慢しなければならない。どんなに悔しくても、怒りがこみ上げても、大人には笑顔を作らねばならない場面がある。家族を背負えば猶更である。そうして笑った顔は醜い。感情を抑えることが出来ないことが、ひきつった目つきにも表れる。それが分かっていても、私たちには、どうすることもできない。その感情は私のものだが、同時に、私がコントロールできないものでもある。

逆に、熱狂的に心が動く商品に対しては、それを買うことから逃れることもできない。日が昇るのを布団では待てず、発売日前の夜明けに、Appleストアに並ぶようになる。

前回までの「グーグルの逆説」、「失われた顔」、「信任・信託」といった資本主義論は、企業競争の背景にある大きな潮の流れであった。その潮目に逆らえば、勝つことは許されない。 ただ、特別な会社になるためには、この潮目に乗るだけでは足りない。信頼され、それと同時に、熱狂(マニア)を生まねばならないのである。既存のビジネス本が語らないもの、そして棹をさせば流されてしまうもう一つのもの、「ヒトの感情」を正しく知ろう。感情の「理論」を持たなければ、どんなにデータを集めても、どう解釈すれば良いか分からず、新しい洞察は得られない。

ヤーク・パンクセップ

感情の脳科学の導き手として、彼の不思議な名を聞いたのは、岩井克人先生との2時間の対話の最後であった。私は先生に問うた。

「消費者の頭の中に、物語として企業の顔を伝える場合、記憶をどのように構築していくべきでしょうか。ヒュームは『類似』『近接』『因果』、その3つが頭の中の観念同士の引力だと言っています(注1)。ヒュームの他に参照すべきものがあるでしょうか」

先生は、少し間を空けてから、こう仰った。

「わたしは最近脳科学ばかり読んでいるんです。前にやったことをまとめて書こうと思って、脳科学を勉強して、最終的に脳科学に還元できないことが経済学だということが言いたいのです」

先生の著作の中には、生物学に触れたものは多い。生物としてのヒトを社会的な人たらしめるものとして、遺伝子に還元されない「貨幣・法・言語」を考えてこられた(注2)。ただ、近年、本格的に脳科学を勉強されているとは存じ上げなかった。

「つい最近非常に面白かったのが。もう70歳くらいの爺さんなんだけど、リトアニア出身のヤーク・パンクセップ(Jaak Panksepp)っていう不思議な名前の人です。この人が”The Archaeology of Mind”という、「心の考古学」っていう本を出している。彼は人間と動物っていうのは、感情の部分であまり変わらないと言う。彼のYouTubeをいくつか見ているんですが。面白かったのは、ネズミをくすぐるとネズミが笑うっていうのがあるんです。本当に笑うわけ。

彼は人間も動物も共通に、7つの基本的な感情があると言う(注3)」

パンクセップ教授の「7つの感情回路」とは、SEEKING(ワクワク)、RAGE(怒り)、FEAR(恐怖)、LUST(性欲)、そして哺乳類共通のCARE(慈しみ)、GRIEF(寂しさ)、PLAY(楽しみ)の7つである(次回詳説)。

「この7つの基本的な感情がある、システムがある。これは人間も動物も共通。人間の理性の部分じゃなくて感情の部分、ここがこれからのね、何か物語を作る時の基本の柱として使えるかもしれないね」

物語論の歴史はギリシア・ローマの頃より古い。ただ、そこにあるのは、アリストテレスなど天才による洞察と、長年の経験則である。ただ、もし人間の感情が科学的に分かるとしたらどうか。情報とイメージの氾濫する世界で、企業の伝えるべき物語を、消費者に鮮明に記憶させられるかもしれない。熱狂(マニア)をもたらす「新しい価値」とは何かが分かるかもしれない。

筆者の疑問にも気さくに応じてくださった、感情の国でのヨーダとも言うべき、パンクセップ教授の理論を紹介しよう。

真のパイオニア

物理的・化学的な脳の中に、どのようにして感情が生まれるのか。

神経科学者に聞いても果々しい解答の得られなかった疑問に、正面から取り組んだのがパンクセップ教授である。Invisible Hand(「見えざる手」)を見ようとした岩井先生と同じく、まさにパイオニアである。そして彼は本当のパイオニアであるからこそ、その研究は長く守旧派からは黙殺をされた。それでも40年の間、コツコツと研究を行い、論文を発表し続けた。

98年に”Affective Neuroscience”を発表。同年に、彼がネズミをくすぐり、笑わせる映像をBBCが放送したことをきっかけに、世間的にも知られるようになった。現在では、鬱病の治療にその研究成果が活かされ、まったく新しい薬・治療法の開発が進んでいる。

それでも彼の研究が学会から省みられることは、その業績に比べると未だ遅々としたものと言わざるをえない。その理由は、感情を脳科学的に明らかにした彼の手法が、西洋のアカデミズムからは受け入れ難いものだからである。

Taking the emotional feelings of animals seriously may yield more rapid understanding of human emotions
(動物の感情を真剣に研究することが、人間の感情を理解する近道かもしれない)

この一文は彼がシアトルで行ったTEDの結論部の言葉である。彼らしくmayと言っているが、彼の積み上げられた成果から言えばmustと言ってもよい。彼は「動物はわれわれと同じ感情を持つ」という仮定に立って、動物の感情についての研究を行った。

動物は人間が持っているのと同じ感情を持つ。これは神の似姿として、人間を特別視する西洋では、信条的に受け入れ難い仮定である。身体の他の器官については動物実験を行う彼らも、感情を生み出す器官については動物から学ぼうとはしない。

また、主観的(subjective)に感じるものである感情を、客観的な(objective)科学の領域で扱うことへのアレルギーも大きい。ラットの脳に電流を流しながら、「いま、どんな感じか?」と聞いても、答えるべき言葉を持たぬ以上、なおさら客観的には扱い得ないように思われる。そもそも、感情とは”pre-verbal”なもの、”pre-symbolic”なものである。そのため、言葉を持つ人間であっても、感情を客観的に扱うのは難しい。学界では、感情をブラック・ボックスに入れ、刺激に対する行動を観察する「行動主義」が長年幅を利かせてきた。

感情とは進化の賜物

これはビジネスの世界でも同様である。インタビューで言葉を拾う、エスノグラフィで行動を観察する。ビッグデータに基づき、統計的に群れで消費者を分析する。どれも感情をブラック・ボックスに入れたものである点は同じである。

試みに多くのデータに基づいて、パワーポイントの上に並べられた「消費者インサイト」を見てみるが良い。物々しいデータの量に比べ、その結論の浅薄なることに驚くだろう。

感情についての理論を知らなければ、どんなに材料を集めても、それを解釈することが出来ない。結果、自分の経験に基づいた憶断を出ない。データ解析部分が理論的に見えても、結論部の大切な解釈では経験主義に堕してしまう。

ただ、もはや感情はブラック・ボックスではない。パンクセップは、動物の脳を刺激し(電気刺激・部位削除・化学物質投与など)付随する行動を観察することで、どの部位がどの感情を生み出すのか、それをコントロールする化学物質は何かを特定した。結論として、人間は哺乳類と同じ基礎的な「7つの感情回路」を持つことが示された。

感情とは、エーテル状のガスなどではなく、サバイバル・ツールとして、進化の過程で私たちの脳の中に備わったものである。目、鼻、口、手、さまざまなセンサーによって外界から入った情報を、どのように評価すべきかを教え、それに付随する行動を取らせるものである。

大雑把にいえば、怒り、恐怖、寂しさをもたらすものを避け、ワクワク、異性への憧れ、子への慈しみ、楽しさをもたらすものには近づく。この感情というサバイバル・ツールを持った個体・種が生き残ってきたのである。つまり、感情とは、もっとも基本的な「deep value system(評価基準)」である。

そして、感情は、長い動物の進化の過程で備わったものであるため、私たち人類の個体の意志を超え、支配的な力を持つのである。そして、特定の商品が頭では抑えられない熱狂(マニア)を人にもたらすのも、この古いが強力な感情回路を刺激するからである。

その中心にあるのが、SEEKING(ワクワク)回路である。人は、商品そのものよりも可能性を、更には世界の再解釈(Reshape)をもたらすものを強く欲させる回路を、耳と耳の間、古代の脳の中心に持つ。このSEEKING(ワクワク)回路を刺激した時、強い熱狂(マニア)が生まれるのである。どのような商品が、SEEKING(ワクワク)回路を刺激し、熱狂(マニア)を生むのか、それが次の話。

(2014年4月30日 DIAMOND ハーバード・ビジネス・レビュー オンライン 掲載)

【注】
(1)ヒューム「人性論」中公クラッシックス
(2)例えば、岩井克人「資本主義を語る」ちくま学芸文庫中の「進化論と経済学」
(3)特に注が無い場合、本連載におけるPanksepp教授の理論は、Jaak Panksepp, “The Archaeology of Mind”, W.W. Norton and Companyに拠る
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※本連載はDIAMOND ハーバード・ビジネス・レビュー オンラインに寄稿した内容を転載しております。