書かれていないものを読む

赤門より入り、すぐ右手に回ると、高い建物がある。経済学研究科棟である。その地下には、春の行事にも使われる薄暗い大きな教室があり、岩井先生(注1)の「経済学史」の授業もそこで行われた。 古代ギリシアのアリストテレスから始まった講義は、葉桜の頃、アダム・スミスの「国富論」に至った。浮かれた生徒が半ば脱落した教室で、先生はこう仰った。 さて、古典を読むときには、二段構えのアプローチが必要であることを確認しておきたいと思います。まず第一に、その文章のなかに何が書かれていないかを見つけだすこと、そして第二に、そこに何が書かれているかを見いだすことです(注2)。」 アダム・スミスは重商主義について直接語ること極めてわずかであった。そして、そこにこそ、彼が『国富論』で世界をどのように見ようとしたのかが、かえって明瞭に表れる。利益を生み出すのは商人ではなく、労働者だという世界観である。何が書かれていないかを知ることで、作者を相対化でき、そこで全体像が見えるようになる。 本連載では、ビジネス書に「書かれていないもの」を岩井先生との対話を基に紹介する。 それを知ることで、ビジネス書を読み、ビジネス言語を自ら用いることで、いつの間にか私たちの頭に沈滞した「ビジネスとはこういうものだ」という見方を疑い、それを変えることができるようになる。世界の見方が変われば、自然、仕事の仕方が変わり、経営者であれば戦略の立て方が変わる。 私は既存のビジネス書に「書かれていること」に不満足であった。端的にその不満を言えば、成功ケースを語り、また、統計的に成功企業群を扱ったところで、過去に基づいて将来が描けるとは思えない。「違い」を意図的に作ることのみが利潤を生むポスト産業資本主義の中で、ベストプラクティスを模倣することは、ベストどころか次善の策にもなり得ない。ジョブズが過去のデータを基に考えたか、なぜバフェットがチャーリーをパートナーとして畏敬してきたのか。 経験主義的にのみ世界を見るのは知的な怠慢でしかなく、社内で「ファクト・ベース病」が蔓延するのは、データへの責任転嫁でしかない。私は既存のビジネスの見方では、息が詰まって仕方がなかった。大切なものを掬い落としている実感があった。 そこから脱するため、私は岩井先生を訪うた。そして、先生から、既存のビジネス書が語らないもの、「資本主義」と「人」について伺った。 経験に堕すことなく、理念的に語ること、ここに載せるのは、その対話の抜粋である。

正解のない世界

東大を退官された先生は国際基督教大学(ICU)の他に、溜池の東京財団にもオフィスをもたれた。これからの競争戦略について答えを聞こうと急く私に、冒頭でこう仰った。 「ただね、違いというのは、正解がないということなんだ」 商業資本主義、産業資本主義を経て現前したポスト産業資本主義において、意図的に違いを作ること以外に、利潤を生む方法は残されていない。その最たるものが、時間軸を移動して違いを生み出そうとするイノベーションである。(注3) ただし、そうであるからこそ、違いの作り方に唯一の正解など存在しない。そんなものが存在すれば、たちどころに真似されてしまう。この冒頭の言は、徒に答えを望むことをたしなめるものであった。先生はポスト産業資本主義の現在について、例を引きながら語り出された。

グーグルの逆説

「グーグルを調べているわけではないのだけれど」 こう前置きをされた後、先生はグーグルの「20%タイム」とその社是について触れられた。20%タイムとは、グーグルが従業員に就業時間の20%を興味のあるプロジェクトに費やすことを許す仕組みであり、社是とは「世界中の情報を整理し、世界中の人々がアクセスできて使えるようにすること」である。 先生はグーグルに典型的に表れたポスト産業資本主義の特質を、「グーグルの逆説」としてこう提示された。 「資本主義的じゃないことを追究することによって、つまり、お金で買えないものを追究することによって、逆にそれが最もお金を生む仕組みになっているということ」 なぜこの逆説が成り立つのか。それを知るために、「お金の力が弱まった時代」としての現在を知らねばならない。 先生は現在を語り出すために、資本主義の変遷をたどられた(注4)。資本主義の原理は変わらない。それはフェニキア人が地中海を往来する昔、そして「ヴェニスの商人」の昔から変わらない。違いから利潤を得ることがそれである。ただし、その違いを得る「方法」は移り変わる。 地理的な違いを利潤の源泉とした古代の商業資本主義(例、インドで胡椒を買い、ロンドンで高く売る)、それに続いて、工場を持つことで利潤を得る産業資本主義の時代に至る(「お金の時代」)。ここでの違いの源泉は、農村に蓄積された労働者の低賃金と商品価格の違いである。したがって、都会に若者を送り尽くすと、高度成長は止んだ。農村の金の卵は枯渇し、工場は利益を自動的に生むことをしなくなった。こうして現前した世界は、違いを「意図的に」作らねば利潤の得られないポスト産業資本主義の時代である。そして意図的に違いを作ることは、創造的な人間のみに許されたことである。 先生は現在にまで説き及ぶと、「ここで面白いのは」という口癖を二度繰り返された。 「ところが、ここで面白いのは、人間の頭脳・創造性はお金で買えない。もちろん札束を切ればある程度喜んで働いてくれますけど、人間は基本的にお金で買えないということから、つまりお金のパワーが、力が消えてしまっている時代というのが、私の言っているポスト産業資本主義なんですね。 しかも面白いのは、違いを生み出してくれる人間、また創造性を持っている人間をどうやって引きつけるかという時に、ここで「グーグルの逆説」が来るわけです。そういう人たちは何を求めるか。もちろん最低限の給料は欲しいです。ただ、本当に企業が欲しい人というのは、「お金で買えないもの」しか欲しくなくなっているという時代になりつつあるということなんです」

お金で買えないもの

違いを作り出せるような人は、「お金で買えないもの」を欲する。先生は、従来そういった人材が集まった場所として大学を挙げられた。そこには、自由で文化的な環境、社会的な尊敬、一緒に働いて面白い優秀な同僚などがある。それらは、大学よりも良い給料に加えて、グーグルが提供しているものに他ならない。 「しかも同時に、グーグルは会社自体が、『自分たちは資本主義的ではない』『利益だけを追究する会社ではない』ということを意図的に標榜する。それが結果として、そこでも『お金でない何かを与えること』によって、グーグルに人が集まってくる。 結果的に従業員が、20%は自分の興味のあるプロジェクトをやり、いろんなイノベーションが起き、それが最終的に会社に戻ってきて、資本主義を標榜しないグーグルが、資本主義的にも最も成功した会社になってしまったという逆説なんですね。これが非常に面白い」 アップルやピクサーを始めとした「グーグルの逆説」で成功している企業はすぐに頭に浮かぶだろう。ピカソやアインシュタインの登場する「Think Different」キャンペーンはアップルに集まる人の質を大きく変え、その後の成長の土壌を作った。ピクサー創業者のエド・キャットムルは、最高の創造性を持つ人材を集め、そして活かす方法を研究し続けた。結果、効率性からは遠く見える”playground”とも呼ばれる独特の職場を作り上げ、業界では稀な長期的な成長を生み出した(注5)。往年のソニーもやはり独自のスタイルを標榜することで、違いを生み出す多くの人間を集めて成功を遂げた。送られてくる履歴書の質で将来の利益率が大きく変わり得る。 この「グーグルの逆説」が従来のビジネス書に書かれない「資本主義」の特質の1つである。そしてこの「グーグルの逆説」は、優秀な人材を企業に集めるだけでなく、「資本主義的でないものを追求する」企業を、消費者も欲するという動きによってさらに強められる。

抽象化する交換

では、資本主義的な利潤ではなく、倫理的なものを追求する企業の商品を、消費者も志向する傾向があるのだろうか、そして、それをもたらしているのは何なのか。先生はこう仰った。 「そのヒントとして1つあるのが、ポスト産業資本主義に入って、お金が段々抽象化している。とはいえ、お金はそもそも昔から抽象的なものだったのですが、それが段々表に表れてきている。お金が抽象化すると、人間がモノを買ったり売ったりといった『交換する活動』が、どんどん抽象的になってしまう。ほとんど交換しているように見えなくなってきている。ここにヒントがあるわけです」 ヒトを人たらしめる貨幣の両面が立ち現われる。資本主義の繁栄をもたらすと同時に、交換の場から人間の「顔」を遠ざけた貨幣の力である。 現代の交換の場において、どんな企業が選ばれるのか。既存のビジネス書が語らない「交換が持っていた本来の価値」を見直すと、戦略の中心に企業の「顔」の必要性が現れる。それは既存のブランディング論では片付けられぬ話である。

(2014年4月9日 DIAMOND ハーバード・ビジネス・レビュー オンライン 掲載)

【注】
(1)岩井克人国際基督教大学客員教授。東大名誉教授。東京財団名誉研究員。東京大学経済学部卒。マサチューセッツ工科大学Ph.D.。イェール大学助教授、東京大学助教授、プリンストン大学客員準教授、ペンシルベニア大学客員教授などを経て、89年より東京大学経済学部教授。01年10月より03年9月まで同学部長。『Disequilibrium Dynamics』(日経・経済図書文化賞特賞)、『ヴェニスの商人の資本論』、『貨幣論』(サントリー学芸賞)、『会社はこれからどうなるのか』(小林秀雄賞)等。09年、ベオグラード大学名誉博士
(2)岩井克人「資本主義を語る」ちくま学芸文庫
(3)岩井克人「二十一世紀の資本主義論」ちくま学芸文庫
(4)岩井克人「二十一世紀の資本主義論」ちくま学芸文庫、第一章などを参照
(5)Innovate the Pixar Way, Bill Capodagli and Lynn Jackson, McGrawHill
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※本連載はDIAMOND ハーバード・ビジネス・レビュー オンラインに寄稿した内容を転載しております。